伝説エピソード③:コンピュータに明け暮れた中高時代!インターネットと出会った大学時代に会社設立
堀江さんはコンピュータとの出会いがきっかけで人生を大きく変えていったわけですが、そもそも堀江さんがなぜコンピュータに興味を持ったのかは、あるネットに書かれた内容でした。
1983年、アメリカ映画『ウォー・ゲーム』が公開された。パソコン好きの天才少年が、国防省の軍事コンピュータに偶然アクセス。第三次世界大戦を引き起こしそうになる、というSFサスペンス映画だ。僕がコンピュータに魅入られたのは、紛れもなくこの作品がきっかけだった。
「中学生のホリエモンがパソコン沼にハマって気づいた人生のコツ」から引用させていただきました。1983年は堀江さんが11歳の頃です。
この時からパソコンに興味を持ち、触ったことがないのに確信に近い思いがありました。

コンピュータを手に入れれば何かが変わる。退屈な日常が、まったく新しいものへと変わる!
そこで、久留米大学附設中学校(略:フセツ)に合格したお祝いとして、母にパソコンを買うよう説得をしました。

これはゲームじゃなくて勉強に使うモノて!(ものだから!)
そしてようやく待望のパソコンを手に入れたのです。日立パーソナルコンピュータH2です。当時のCM動画がありましたのでご覧ください。
日立H1、H2共にCMキャラクターは女優の工藤夕貴さんでした。
当時の日立は、高スペックパソコンで1台30万円としてリリースしていましたが、そのあと価格を下げていく戦略をとりMB-H1で6万弱で販売をしていました。メモリは32Kでした。
それからテープデコーダを内蔵しメモリを64Kに増やしたのがこちらのH2になります。音楽テープも再生できます。前作のH1も含めてMSX機能がありゲームができます。

日立パーソナルコンピュータH2
H2のスペックを掲載します。現代とはまるで違いますが当時は人気の機種でした。初心者向きには最適だったようですよ。
メーカー | 日立 |
型番 | H2 |
価格 | 79,800円 |
規格 | MSX |
メインRAM | 64KB |
ビデオRAM | 16KB |
H2の購入から1年後、今度は20万円のパソコンが欲しくなったのですが、さすがに両親に出してもらうには高いので、このようなことを提案しました。

20万円貸してほしかと(貸してほしい)
そして両親から借りたお金は…、

新聞配達して全額返済するけん(返済します)
それで購入したのが、NEC PC-8801MKⅡFRです。こちらも当時のCM動画がありましたのでご覧ください。
若かりし頃の武田鉄矢さんですね。スマートでかっこいいです。
NECのPC-8801MKⅡFRのグラフィックスは光の3原色の各8諧調512色のうち8色が選べるようになり、サウンドも格段に向上、あらゆる面で強化されています。

1985年11月に発売したPC-8801mkⅡFR
価格はかなり高めですが機能としてかなり優秀です。
メーカー | NEC |
標準価格 | 178,000円(model30) |
CPU | メイン μPD780C-1(Z-80Aコンパチ、4MHz) サブ μPD780C-1(ディスクコントロール、4MHz) |
ROM | メイン N88-BASIC:96KB サブ ディスク・コントロール用:2KB |
カラーグラフィック表示 | 640*200ドット 1画面 カラー8色(デジタルRGBディスプレイ使用時) カラー512色中8色(アナログRGBディスプレイ使用時) ドット単位に指定可 |
詳しいスペックや機能についてはこちらをご覧いただければわかります。
このように、パソコンを手に入れてからの毎日はプログラミングに没頭したようです。人の作った世界で遊ぶ「ファミコン」には興味はなく、自作したプログラムで音楽が流れたり絵が表示されたり、ゲームの世界を作ることができることに魅了しました。

ハマっているのはプログラミング!
そんなある日、堀江さんに仕事の依頼が飛び込んできました。小学校の時に通っていた塾「全教研」が運営する英語スクールから、パソコンの総入れ替えのため教材の移植を頼めないか、という話でした。
本来、業者に依頼するところをわざわざ堀江さんに頼む経緯はなんだったのかはわかりませんが、「これはチャンス!」だと思い、引き受けたのです。
それからの1ヵ月間は試行錯誤を繰り返しながら無我夢中でプログラミングを続け、なんと中学2年にして期日内にシステム移植をやり遂げたのです。
その時、受け取った報酬が10万円でした。金額がどうこうではなく、「堀江貴文」という存在を認められ、「働く」ことの意味を理解したそうです。

この経験が堀江さんの今後の人生に影響するほどの大きな収穫だったみたいだよ!
その後通っていた塾の英語学習システムをPC-8801FRに移植するのが初仕事だったなぁ。今思えば600×400ドットのモノクロ高解像モードにキャラクター単位でカラー漢字表示させたりして何か凝った事やった気がする。
— 堀江貴文(Takafumi Horie、ホリエモン) (@takapon_jp) May 19, 2022
大学に入ってからの堀江さんは、パソコンから離れてしまい自堕落な生活を送っていました。しかし、友人から言われた一言で堀江さんの今後の人生を左右することになりました。

(堀江さんの友人)このままやったらずっと八女(やめ・堀江さんの地元)で生きていくことになるぞ

それだけは絶対にイヤだ!!
堀江さんの少年時代にいつか言っていた言葉(誓いの言葉)「僕はいつか必ず田舎から出ていく!」決心に再び火が付いたのです。

家から出るために両親を納得させる圧倒的な説得材料が必要だ。誰もが認めるような…、日本一とか…!
そして決心したのが…、

東大(東京大学)に行くって決めた。
それから10カ月後、本当に東大に合格したのでした!

東大受験勉強する前は、学校の成績は下のほうだったみたいよ

意欲だけでここまでできないよな!覚悟と努力すげー!

東京大学のイメージ
大学時代の堀江さんは塾講師のアルバイトをしていました。その時の収入は悪くなかったのですが、中学の頃に経験したパソコンのシステム移植の仕事で感じた「働くこと」の充実感、達成感を再び味わうために、コンピュータ系ベンチャー企業に身を置き、開発者向けパソコン通信サービスの運営を任されました。
そんなある日、取引先の担当者から「会社のホームページを作ってみないか?」という打診を受けました。インターネットやホームページの存在は知っていましたが、真の可能性を理解していなかったので大急ぎで調べまくったそうです。
そして、ついに目覚めたようです。

インターネットには無限の可能性がある!

インターネットのイメージ
独立起業を目指すためベンチャー企業を退職し、なんと会社を起ち上げたのです。
東大に籍を置いたまま600万円を借金して起業!1996年4月に有限会社「オン・ザ・エッジ」を起ち上げました。

マジか!東大生のまま会社つくったのか!?

すごい行動力ね…!!
「オン・ザ・エッジ」とは「最先端を走る」という意味ですが、それは表向きで実際に本当の気持ちを表しているのは、背水の陣の方の意味だったそうです。
背水の陣 とは…?
切羽詰まっていて、もう一歩も後にはひけないぎりぎりの状況。また、そうした状況に身を置いて、必死に物事に取り組むこと。
では、有限会社オン・ザ・エッジとはどのような会社なのかを簡単にまとめましたのでこちらをご覧ください。
元々、堀江さんは起業へのあこがれが強かったといいます。インターネットが出現する前から元手のいらない事業で起業できないかと考えていたそうです。
なので念願が叶った!というわけですね。

ようやく働く環境ができた!働くぞ!
SNSでもちょっと見つけたので取り上げます。
有名な実業家の堀江貴文さんが初めて起業したのは23歳。
今よりも会社設立にお金がかかる時代、堀江さんは600万の借金をして会社を設立したらしい。
「600万を借りるリスクより、このタイミングを逃すことの方が大きなリスクだった」
と。
すべからく成果を上げる人はこの見極めが出来る人。… pic.twitter.com/aTX99LYPeH
— ニシジマ|清楚系攻略 (@nishi_mote) October 10, 2024
「しつこさ」堀江貴文さんの言葉。「起業家が成功する条件」の一つとして「しつこさ」をあげられている。「毎日、作業的にしつこく営業し続ける。50件、100件と営業メッセージを送り続ける。そこには、パッションなんか必要なくて・・・しつこく、作業的にやり続けるんだ。」気持ちの上がり下がりにか…
— ルーティン社長 (@routinenew100) February 14, 2025
オン・ザ・エッジ時代の堀江社長が見れる動画があります。今では貴重な動画ですね、良かったらご覧ください。

オン・ザ・エッジからライブドアに社名を変更したのは2002年。経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得した上で変更したみたいだよ
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