【画像54枚】ゲル総裁石破茂の若い頃の伝説エピソードまとめ8選!出生から政界入りまでを調査!

芸能

石破茂の若い頃の伝説エピソード8選

石破茂さんは政治家として30数年にわたり続けています。その経歴はかなり多く、世間的により多くの人が知っていることかと思います。

石破茂元幹事長が自民党総裁選への意欲を示し、両手でガッツポーズをしています。笑顔が素敵です。

2024年9月 石破茂氏、自民党総裁選の意欲を示す

いくつかの政党を渡り歩き、2024年9月27日の自民党総裁選で高市氏との決選投票において、石破茂さんが勝利しました。

2024年9月27日に自民党総裁選において高市氏を破り石破茂氏が新総裁に勝利しました。

2024年9月27日 自民党総裁選において高市氏を破り石破茂氏が新総裁へ

そして同年10月1日をもって正式に石破新内閣が誕生しました。

2024年10月1日に石破新内閣が正式に発足しました。

2024年10月1日に石破新内閣が正式に発足

では、政治家になるまでの若い頃の茂さんはどのような人なのかご存じな方はどれくらいいますでしょうか。

茂さんの両親やその家系、茂さんがこよなく愛しているもの、実は驚くこともありますが私たちにとっても親近感を感じるものだったりするのです。

ここでは、石破茂さんの若い頃のエピソードについていくつかご紹介します。

石破茂の若い頃のエピソード8選
①茂の出生時に病院は茂の父親の秘書を実の父だと思っていた!?
②父・石破二郎とはどんな人物?茂が育ったのは鳥取県
③国語教員だった母から毎晩偉人伝の朗読をさせられていた
④高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファン!
⑤学生時代からの鉄道マニア!お気に入りの寝台特急を1000回以上利用していた!
⑥大学2年に全日本学生法律討論会で1位を取る
⑦大学時代に一目惚れ!?8年の恋愛!お相手は佳子夫人
⑧政界入りは父の友人だった田中角栄の一言で決断!

伝説エピソード①:茂の出生時に病院は茂の父親の秘書を実の父だと思っていた!?

石破茂さんは昭和32年(1957年)2月4日に東京都千代田区にて産まれました。

鳥取県出身と言われていますが、生まれは東京だったんですね。鳥取県に転居したのは翌年のことです。これについてはあとでお話します。

石破茂さん(写真中央)は父・二朗さんと母・和子さんとの間に生まれた末っ子で長男です。

石破茂の幼少期の写真 父・二朗と母・和子との間の子供

茂さんが生まれた時、父の二朗さんの年齢は48歳だったのですが、当時二朗さんの秘書だった高岩迪資さんによると以下のことがウィキペディアに書かれていました。

自身の高齢の恥ずかしさから二朗は病院へ行きたがらず、高岩が代理で病院へ出かけていた。そのため病院側は、高岩を茂の父親と間違えたことがあったという。

二朗さんはほぼ病院に行くことはせず、秘書の高岩さんに任せていたことで、このようなエピソードが生まれたんですね。

ゲン
ゲン

ちなみに秘書の高岩さんの下の名前「迪資」はどのように読むのかな??
みちすけ…かな?

茂さんのご家族の構成にも驚きです。ご両親もご姉妹も皆、エリートなんです。

石破茂の家族構成
父・二朗 ⇒ 政治家
母・和子 ⇒ 元国語教員
長女 ⇒ 英語教員
次女 ⇒ 歴史教員
お姉さんが2人いて茂さんは末っ子で長男ですが、政治家としての活動は長く、活躍されています。

伝説エピソード②:父・石破二郎とはどんな人物?茂が育ったのは鳥取県

石破茂さんの生まれは東京でしたが、翌年の昭和33年(1958年)に鳥取県に転居しました。その理由はウィキペディアにこのように書かれています。

1958年に父・石破二朗が鳥取県知事に就任したため、鳥取県へ転居。中学校卒業まで鳥取県八頭郡八頭町で育つ。そのため茂には幼少期の東京での記憶がない。

石破茂さんの父である二朗さんの出身は元々は鳥取県であり、知事として最初に就任したのが1958年、1962年11月に二度目の再任、三度目が1966年11月、四度目が1970年11月で計4回鳥取県知事として活動をしていました。

1974年2月に知事を辞任し、同年7月に参議院議員として当選しています。

 

さて、その二朗さんとはどのような人物だったのか?

鳥取県では知る人は多いかと思います。故郷の鳥取県に対して人一倍、思い入れがあったようです。

石破二朗氏の画像です。当時48歳です。1955年建設事務次官の時です。

石破二朗氏 当時48歳 1955年 建設事務次官時

石破二朗さんのプロフィールを簡単にまとめましたのでご覧ください。

生年月日 1908年(明治41年)7月29日
出生地 鳥取県八頭郡(やずぐん)大御門村(おおみかどそん)大字殿
没年月日 1981年(昭和56年)9月16日  (73歳没)
死没地 鳥取県鳥取市(鳥取県立中央病院)
出身校 東京帝国大学法学部法律学科卒業
所属政党 自由民主党

さらに二朗さんのことをもう少し掘り下げた内容がこちらです。これでなんとなく人柄やイメージなど想像ができそうです。

石破二朗氏とはこんな人
●過去の経歴がすごい
(内務省、警視庁、地方事務官、鳥取県知事、参議院議員など数知れず)
●鳥取県知事の当選回数4回
●参議院議員の鳥取県選挙区において当選回数2回
●農本思想の持ち主
●儒教精神を持つ
●故郷を忘れず義と理に厚い
●古武士的性格である
●剛直そのもので温厚などとは程遠い人柄
●仕事に常に厳しく旧内務省の後輩から”こわい人”で通っていた
●田中角栄元首相を友人に持つ

二朗さんはとにかく経歴がとんでもなくすごい人でした。仕事一筋だったのではないでしょうか。その一方で義理や人情に厚い方でもあります。

息子の茂さんのブログの中で父・二朗さんの遺影を写した画像がありました。「なぜ政治家を志したか」のサブタイトルで書き込みされています。

石破二朗氏の遺影です。石破茂さんのブログに掲載していた画像です。

石破二朗氏の遺影(石破茂ブログから)

二朗さんが亡くなる前のエピソードが詳しく掲載しています。二朗さんの友人、田中角栄元首相との最後のやり取りがとてもわかりやすく丁寧に書かれています。よろしければこちらもご覧ください。

なぜ政治家を志したか・その2 - 石破茂(いしばしげる)ブログ
石破 茂 です。  前回のつづきです。 昭和55年7月、大平正芳内閣不信...

 

鳥取 ArtDB Projectという鳥取県内の野外彫刻専門のホームページに二朗さんの知事時代をモチーフにした像が掲載しています。

石破二朗知事の像です。鳥取市永楽温泉町に設置してあります。低めの椅子に座っている姿です。

石破二朗知事の像 鳥取市永楽温泉町に設置中

低めの椅子に腰を掛けた二朗さんの姿です。知事時代はこのような感じで佇んでいたのでしょうか。とても繊細に綺麗に作られています。

ただ一つだけ疑問があります。ホームページ内で掲載しているこの像の設置場所の住所なのですが、鳥取中央郵便局交差点は正しいのですが、「鳥取市富安2丁目」は少し場所がずれていますJR山陰本線を挟んだ向こうになってしまうのです。

これって気付いている方はいらっしゃるのでしょうか?私なりに正しいと思う住所をここに掲載させていただきます。こちらの地図で良いかと思います。

ゲン
ゲン

鳥取県に貢献した二朗さんへの敬意が込められているね
そんな父を持つ茂さんもその意思を引き継いでいるよ

あと、ホームページ内では「二郎」と記載していますが正しくは「二朗」です。

 

父・二朗さんの経歴を見ますといろんな職務を転々と移り実績を重ねてきました。それに対して息子の茂さんは政界に入り、これもまた様々な党や政権支持を渡り歩き、2024年9月現在では次の総裁選の候補者の1人として名を挙げています。

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

こうしてみるとやっぱ親子なんだなーって思うぜ
経験とか実績の積み方が似てるんだよな~

ピー子
ピー子

お父様もご子息もどちらも活躍が素晴らしいわね!

伝説エピソード③:国語教員だった母から毎晩偉人伝の朗読をさせられていた

茂さんの母の名前は石破和子と言います。ウィキペディアでは以下のことが記載しています。

母親は、自身が国語教員だったということもあり、教育熱心な人物だった。小学校の頃は毎晩1時間程度、偉人伝の朗読をさせられた。

母・和子さんの教育熱心なところは和子さんの家系から引き継がれているように見えます。とくに祖父の金森 通倫(みちとも)氏からの影響が大きいです。

 

では、簡単に和子さんの家系について追っていきましょう。画像ですが家系すべての収集は不可能でしたが4人だけですがこちらになります。

「祖父」や「長男」といった肩書きは和子さんから見た場合としてご覧ください。

祖父・金森通倫、長男・和子の父である金森太郎、次男・金森次郎、長男・太郎の娘である石破和子のコラージュ画像です。

石破和子の家系となる金森家の面々

画像は白黒でわかりにくいですが、どことなく雰囲気が似ているように見えるのは私だけでしょうか。金森家の人たちは誰もが仕事で成果を出している人たちばかりです。

それぞれ進む道は違いますが、祖父の金森通倫氏から始まり子供たちは皆、すごい肩書きを持っています

〖祖父〗金森 通倫(みちとも)
・キリスト教信者
・牧師
・板垣退助と政談演説をした
・大河ドラマ「八重の桜」のモデル
・妻は岡山出身の小寿(こひさ)という女性
〖祖父〗金森 通倫の子供(4男5女)
〖長男〗金森 太郎 ⇒ 徳島県知事・山形県知事 ⇒ 〖娘〗和子(石破茂の母)
〖次男〗金森 次郎 ⇒ 山之内製薬取締役
〖三男〗金森 五郎 ⇒ 郡山精神病院院長
〖四男〗金森 九郎 ⇒ 東京工業大学教授寿々枝
寿々枝
三寿
四寿子
※以降は不明
和子さんの場合、お父さんが徳島県と山形県の知事を経験していたことから、想像ですが子育ても相当な勉強家に育てていた可能性はあります
知事になれば、収入額もそれなりに見込めるので塾や家庭教師などにお金を使うことは可能です。参考書や辞書の購入も可能でしょう。
その結果、和子さんは勉学に励むようになり教員となったと推察します。偉人伝を息子の茂さんに毎晩朗読をさせていたということは、少なからず和子さんは偉人伝の素晴らしさを経験し、それを茂さんに伝えたかったのかもしれません。
ゲン
ゲン

実際に茂さんは今は大変な知識を持ち政治家となっているよね
お母さんの影響はあったのかもしれないね

伝説エピソード④:高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファン!

石破茂さんは政界屈指のアイドル通を自認してまして、中でも特に高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファンのようです。

茂さんはインタビューでも何回かアイドルのことやキャンディーズについてファンであることの持論をこう言っています。

石破茂
石破茂

私は、ランちゃんより二つ年下。ミキちゃん、スーちゃんより一つ年下です。

さらにこのように話していました。

石破茂
石破茂

ほぼ、同世代ですから、キャンディーズが歌手デビューした1973年には、私は男子校の高校2年生。まさに、キャンディーズらのアイドル全盛時代に、青春時代を過ごしました。

キャンディーズは1970年代に活動をしていたアイドルグループですが、世代によっては詳しく知らないと思われる方もいるのではないでしょうか。

ランちゃん、ミキちゃん、スーちゃんの愛称で呼ばれていた3人組がリリースした曲は、数々のヒット曲を生み出した伝説のアイドルグループということは間違いありません。

キャンディーズのメンバー、伊藤蘭(ラン)、藤村美樹(ミキ)、田中好子(スー)の3人組。1970年代に活躍しました。

1970年代に活躍したアイドルグループ・キャンディーズの3人組

では、キャンディーズとはどのようなグループだったのかを簡単にまとめましたのでご覧ください。

キャンディーズとはどんなアイドルグループ?
●メンバーは伊藤蘭(ラン)、藤村美樹(ミキ)、田中好子(スー)の3人組
●活動期間は1973年から1978年まで(4年半の活動)
●3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身で最終選抜で選ばれた
●「キャンディーズ」の名前の由来は「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味する
●メンバーの愛称は親しみやすく呼びやすいカタカナ表記で「ラン」「スー」「ミキ」とした
●1973年(昭和48年)9月1日に「あなたに夢中」で歌手デビュー
●発売したシングル曲数は「やさしい悪魔」や「暑中お見舞い申し上げます」など立て続けにヒット曲を出して全部で18曲!
●同じ1970年代で爆発的な人気を博したピンク・レディーとは「ライバル」ではなく同じ時代を生きた「戦友」だった
●突然の解散宣言でランが発言した「普通の女の子に戻りたい!!」は有名になり、当時の流行語にもなった
●解散後は一度も再結成を行わなかったが、プライベートではときどき3人で集まっていた

活動期間が意外に短かったにも関わらず、現代でも語り継がれるほどの人気だったというわけです。平成、令和へと数多くのアイドルグループが世間に出ていますが、キャンディーズは昭和を代表するアイドルグループとして大きな功績を残しました。

茂さんは当時の青春時代の一つとして忘れることなく、今でも語り続けています。

石破茂
石破茂

 私は「ミキ派」です。パッと見で誰が一番いいかといえば、ミキちゃんでしょう。一番美人だし、歌がうまい。父親は声楽家で、母親はピアノの先生。音楽一家で育ったということです。ランちゃんは妖艶で、例えばお付き合いしたら大変だろうと思いながらひかれてしまう。スーちゃんは、お付き合いしたら一番楽しいだろうなという感じ。隣のクラスにいそうな、かわいい3人の女の子だった。

キャンディーズは容姿がかわいいだけではなく、歌もうまかったです。時代が過ぎても「この曲知ってる!」と思う人はいるのではないでしょうか。

例えば下のシングル曲の一例ですが、あなたがご存じの曲はありますでしょうか。

キャンディーズの歴代シングルの一部のコラージュ画像です。レコードデビュー・あなたに夢中、5枚目シングル・年下の男の子、9枚目シングル・春一番、14枚目シングル・暑中お見舞い申し上げます、16枚目シングル・わな、18枚目ラストシングル・つばさ

キャンディーズ歴代シングルの一部

実はキャンディーズの中でも現代のグループでも言われているセンター争いがあったことは知っていますか?まあ、「争い」と言ってしまえば穏やかに聞こえませんし、そこまで激しいことではありませんでしたが、曲によってセンターポジションを変更している時がありました。

全曲の大半はランちゃんがセンターに立っていますが、これもキャンディーズを売り込むための戦略の一つだったようです。

例えば、下の17枚目のシングル「微笑がえし」はランちゃんが基本センターなのですが、途中でミキちゃんと入れ替わってセンターに入ったり、スーちゃんと入れ替わってセンターに入るなど、全員のセンターを見ることができます

キャンディーズ 17枚目シングル・微笑がえしの表紙です。

キャンディーズ 17枚目シングル・微笑がえし

動画はこちらです。↓↓↓

この動画を見るだけでもキャンディーズがなぜ人気があったのかわかるような気がしますし、最後のランちゃんの生声がとても若々しくてかわいいですね。

茂さんがキャンディーズの虜になったことも納得ができます。

石破茂
石破茂

私の好みは、美人で控えめで芯の強そうなミキちゃん。もう時効だと思うので白状すると、同級生の悪童何人かで、キャンディーズが出ている広告の車内吊りを失敬したことがありました。

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

失敬?パクってんのかよ!(笑)

ピー子
ピー子

まあ!!(笑)

石破茂
石破茂

家に持ち帰っていないので私は主犯格ではありません(笑)。彼女たちは青春の象徴ですね。同年代の議員仲間と年に2回ぐらいカラオケに行くと、歌うのはやはりキャンディーズが中心。私はシングル全曲をそらで歌えます。天国にいるスーちゃんも含め彼女たちに会えたら、「一緒に歌いましょうよ」と言いたいですね。

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

天国?なんだ、スーはいねーのか?

ピー子
ピー子

すでに亡くなられたそうよ

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

そうなのか…それは悲しいな

石破茂
石破茂

キャンディーズは3人そろってキャンディーズなわけであって、仮に、藤村美樹さんが伊藤蘭さんと一緒にやることがあったとしても、2度と“キャンディーズ”であることはないわけですよ。

ゲン
ゲン

さすが石破さん…ファンだけによくわかっていますね

石破茂
石破茂

やはり、(ファン)それぞれの心の中にいればいいものなんだと、私は思っているんですね。

茂さんのキャンディーズ青春時代のあとに悲しい出来事があったのが、2011年(平成23年)4月21日にメンバーの一人だったスーちゃんこと田中好子さんが乳がんのため死去しました。55歳でした。

その時の茂さんの言葉がウィキペディアでこのように記載しています。

本当の同時代を生きた私たちの青春そのもの。大事な友達を亡くしたような思いだ

とコメントしています。さらに動画の中でもスーちゃんについて茂さんがコメントしています。

 

キャンディーズのランちゃんが解散宣言をしたセリフで「普通の女の子に戻りたい!」にちなんで、茂さんがこのようなことを漏らしていたことがありました。

石破茂
石破茂

キャンディーズに及びもつかないが、普通のおじさんに戻りたい。

かと言って国のことや自身の立場から逃げたいというつもりではないのでご心配なく(笑)

SNSでも茂さんとキャンディーズについて様々なコメントが挙げられています。

あと、このようなコメントが出ていますが、これって本当に茂さんなのでしょうか。

これについては、ウィキペディアにこう書かれています。

キャンディーズが1977年6月に行った「朝霧高原バスツアー」の際に撮影された記念写真において、スー(田中)の隣に若き日の石破が写っている、という話がwebで語られているが、該当の写真に写っている人物は別人である、と石破本人が否定している。

石破茂
石破茂

それは私ではありませんね。

ゲン
ゲン

そうなんだね、じゃあみんな誤解のないようにね!

伝説エピソード⑤:学生時代からの鉄道マニア!お気に入りの寝台特急を1000回以上利用していた!

茂さんは大の鉄道ファンでマニアと言われるほど知識も豊富です。地元の鳥取と東京を結ぶ寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」を利用する姿も見かけていますが、中でも特に思い入れがある寝台特急についてウィキペディアにはこのようなことが書かれています。

「サンライズ出雲」の前身でもあったブルートレイン時代の「出雲」は自身の高校受験での上京から学生時代、国会議員時代を通じて1000回以上利用したことがあるという。

1000回…といいますと大げさに言っているように思いましたが、実際に茂さん本人が言っているのと、鉄道が好きでたまらない様子から案外本当なんだろうな、と思います。

寝台特急ブルートレイン「出雲」の全体です。

寝台特急ブルートレイン「出雲」

ブルートレインの出雲は現在は走っていません。茂さんはこの頃から好きだったために今でもこのようなことを言われています。

石破茂
石破茂

(ブルートレイン時代の出雲は)もう絶滅しちゃってね……。

そして、このようにはっきりと言っています。

石破茂
石破茂

これ好きだったね。1000回は乗ってたんですね。

その魅力は「鉄道」、「旅」、「非日常感」として、

石破茂
石破茂

夜走るんですよ! 自分の空間だから10時間は、もう酒を飲もうが、読書しようが『これ、私の時間だ!』ってのがあってね。蘇生するのよ。

このコメントに対して、SNS上でこのような反応がたくさん出ていました。

1000回って凄いな…。

しかも出雲って名前がカッコイイ

ホームやブルートレインの中で、石破さんを何度もお見かけしました。

いつもいらっしゃいましたね。私も出雲に乗って帰省していたんです。

そうですね、自分が一息付ける時間があるといいですね!

人間味溢れる石破茂さんの素敵な趣味の話をありがとう<(_ _)>御座います。

そんなに乗れたなんて、羨ましい…

石破さんの話、めっちゃ分かるわぁ

寝台特急いいですよね!自分の空間というのわかりますね

茂さんの鉄道愛に対して様々な共感する言葉が、溢れるほどネット上に広がっています。先ほどの茂さんの言葉は、Xで語っています。

ブルートレイン時代の寝台特急「出雲」はみなさんは乗車したことがありますか?「どちらかと言うと乗ったことがないし、よく知らない」という方のために簡単ですがどのような列車なのかまとめてみましたのでご覧ください。

寝台特急ブルートレイン「出雲」とはどんな列車?
●名称は「JR東日本 24系客車 寝台特急 出雲」
●車両先端のヘッドマークは出雲大社の鳥居をイメージしたといわれる朱色に神秘的な雲があしらわれている
●最初の「出雲」は1972年(昭和47年)に東京駅~島根県浜田駅間で運行を開始した
●山陽新幹線岡山開業に伴うダイヤ改正により特急「いなば」の設定で2往復に増える
●1978年(昭和53年)に「いなば」が出雲市発着となるとともに列車名を「出雲」に変更
●後の「出雲」の運行区間は東京駅から島根県出雲市
●2往復体制で運営時期が長かったこともあり利用者からの根強い支持があった
●1998年に1往復分が寝台電車「サンライズ出雲」に変更
●2006年3月17日に客車の老朽化と利用者減少で惜しまれながら残り1往復も廃止になる

車体の先端に取り付けられているヘッドマークとはこのようなものです。

寝台特急「出雲」の車体先端に表示しているヘッドマークです。

寝台特急「出雲」のヘッドマーク

ブルートレイン時代の出雲は時期によって様々な姿を見せてくれていました。ここではわかる範囲でいくつかご紹介しますね。

寝台特急「出雲」ブルートレイン時代の様々な形態のコラージュ画像です。EF65形+14系客車の出雲2号、14系使用の出雲2号、24系25形使用の出雲4号、DD51牽引ver.など。

寝台特急「出雲」ブルートレイン時代の様々な形態

晩年では出雲のマークもすっかり汚れと錆になると同時にその役割を終えようとしたのかもしれませんね。

寝台特急「出雲」の長年の活躍で風化したヘッドマークです。

「出雲」の長年の活躍で風化したヘッドマーク

全国でブルートレインが廃止になったのは2014年と言われています。時代と共に私たちの記憶として青い伝説は残り続けています。

DD51で牽引する寝台特急「出雲」の全景です。

DD51で牽引する出雲の全景

 

ブルートレイン時代の出雲の貴重な動画が配信されていましたので、その雄姿をご覧いただければと思います。これを見て懐かしい、と感じる人はどのような想いでしょうか。

ゲン
ゲン

時の流れによって消えていったブルートレインは今でも茂さんの心の中にいつまでも残っています。

伝説エピソード⑥:大学2年に全日本学生法律討論会で1位を取る

茂さんは1979年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業しましたが、大学2年の時に全日本学生法律討論会で優勝をしました

春季関西学生法律討論会の一場面です。

参考例①:春季関西学生法律討論会の一場面

全日本学生法律討論会とはどのような大会なのか、初めて聞く方も多いのではないでしょうか。そこで、簡単ではありますが全日本学生法律討論会についてまとめましたのでこちらをご覧ください。

全日本学生法律討論会とは?
●毎年12月に各連盟に参加する20大学が集まり開催される大会
●連盟とは、関東学生法学連盟、関西学生法学連盟、九州・瀬戸内学生法学連盟の3つ
●現在の参加校は関東から8校、関西から6校、九州・瀬戸内から8校
●出題は、憲法、民法、刑法の分野から順次、開催校が依頼した出題者(主に開催校の教授)がこれを行う
●討論形式は、立論10分質疑応答10分で、各校の代表者である立論者が一人ずつ論壇に立ち、立論を行った後、各校の質問者からの論旨に対する質疑に答えるスタイル
●優勝校には最高裁判所長官杯が贈られる。また大会の結果は、朝日新聞に掲載される
●石破茂は、1976年度(昭和51年度)の第26回討論会(刑法・平出禾専修大学教授出題)で優勝している

開催校の教授が出題をするルールから当時、茂さんが参加した場所は専修大学で合っているかと思います。ここに掲載している画像は参考画像ですので、実際の茂さんが参加した会場とは関係がありません。

日本大学法学部法学研究所主催の法律討論会の一場面です。

参考例②:日本大学法学部法学研究所主催の法律討論会の一場面

全日本学生法律討論会に参加した当時のことについて茂さんは次のように振り返っています。

石破茂
石破茂

私が参加したときのテーマがたまたま刑法だった。刑法の教授が、2年生の成績優秀者を何人か呼んで学内予選をやったんです。

予選の内容は公文書偽造の事例問題。その事例は実際にあった事件で、当時の最高裁は公文書偽造にあたるとして有罪判決を下したもの、とのことです。

石破茂
石破茂

私は捻くれ者なので、「こんなもの公文書偽造にあたるはずがない」と無罪にする議論を展開したら、そのまま学内予選で優勝しちゃった。

そしたら教授からこのように言われました。

教授
教授

審査員には最高裁の判事もいるんだ。最高裁判決と逆のことを言ったら、良い点数は多分つけてもらえない。慶應義塾の名誉がかかっているんだから、結論は逆にしなさい。

と言われたので、茂さんは、

石破茂
石破茂

大会当日は論法を逆転させて、まあペラペラ喋っていたらなぜか優勝しちゃった(笑)。

そもそもの話なんですが、実際に最高裁で有罪判決で下したものを、茂さんの無罪論法で予選通過しちゃうことがどうなのかな、って思いますね(笑)。公文書偽造は無罪と言えなくもない、とも捉えてしまいますよね(笑)

それほど茂さんの論破力が素晴らしいのだと思いますが、実際に聞いてみたかったですよね。説得される側になってみたい…と思うのは私だけでしょうか。

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

うーん、よくわからねーけど相手をうまく騙せばいいのか?

ピー子
ピー子

それは違うんじゃない?

質問もされるからね、きちんと答えなくちゃいけないみたいよ。

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

へー、難しいことはおれっちには無理だな!

一大学につき複数人でチームとして大会に出場するような感じでしょうか。会場には多数の人が集まるのでしょうね。

神戸学院大学法学部主催の法律討論会の一場面です。

参考例③:神戸学院大学法学部主催の法律討論会の一場面

SNS上でも茂さんのことについてコメントが挙がっています。

ゲン
ゲン

茂さんは慶應の時に律法会 (@rippou5657) / Xという法律サークルに所属してたんだよ。もしも政治家でなかったら法律関係の仕事に就いていた可能性もあったかもしれないね

伝説エピソード⑦:大学時代に一目惚れ!?8年の恋愛!お相手は佳子夫人

茂さんは慶応義塾大学の在学中に、図書館で佳子さんを見かけたことで一目惚れして8年の歳月をかけて恋愛結婚をしました。

石破茂氏と妻の佳子さんは慶大の図書館で出逢いました。2人が立ち並んでいます。

石破茂氏と妻の佳子さん

お互い大学の同級生の法学部でクラスは違っていましたが、共通の授業が多くて顔を見る機会はありました。ですが会話をするきっかけは何もなかったようです。

若い頃の石破茂氏と佳子さんです。5人で記念撮影をしています。

若い頃の石破茂氏と佳子さん

茂さんと佳子さんが結婚したのは1983年で、最初の出会いから8年ですからそれなりに年月は経ちました。佳子さんは茂さんに対して最初は印象が悪かったので、良い印象になるまで時間が必要だったのと、一度茂さんからの交際を断っています

若い頃の佳子さんがマイクを片手に講演をしています。

若い頃の佳子さん

では2人の馴れ初めはどのような流れだったのでしょうか。解説していきますね。以下をご覧ください。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初めの経緯です。最初の図書館での出会いです。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初め①

絵に描いたような出会い、と言えるような感じでいいですね。ですが会話をするきっかけがありませんでした。

石破茂
石破茂

どうやって彼女と仲良くなったらいいのか。しょせん田舎育ちですから、とてもプレイボーイ風にはいきません。取り柄がない男、というのは自覚していました。

そこで茂さんは次のようなことを実行しました。話すきっかけが欲しかったんでしょうね。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初めの経緯の続きです。茂さんが自前で作った予想試験問題を佳子さんに渡します。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初め②

受けている授業が同じであれば試験内容も同じ、茂さんは得意の刑法の予想問題と答えを周囲に配りまわる作戦に出ました。

石破茂
石破茂

せめて、勉強で少しでもアピールできればと思ったんですね。刑法が好きで自信があったから、試験問題の予想をしたわけです。多分刑法はこの問題が出るだろう、その答えはこれだ、というアンチョコみたいなペーパーを作って、希望者に頒布しました。

ですがそれでも仲良くなることがなかったのですが、どうも佳子さんの方で思っていることがあったみたいです。

佳子夫人
佳子夫人

大学2年の後期試験の前に、彼が刑法の勉強会を開催するというので、お友達と一緒に参加したんです。

そこで彼が試験問題を予想して、模範解答まで教えてくれました。

そのときに初めて言葉を交わしました。“キミは女子学院出身でしょ? うちの姉もあの学校出身だからね~”と、何か意味ありげなしゃべり方をされたので、あまり第一印象がよくなかったことを覚えています(笑)

法律討論会で優勝するほどの論破をする人が、女性への口説きについてはまるっきり駄目のようです(笑)。意識しすぎていたのでしょうね。この時はとっくに佳子さんのことが好きでしたから。

石破茂
石破茂

これをきっかけに私のことを覚えてもらうことはできた。でもその後、試行錯誤を繰り返したのですがたいして仲良くもなれず、いよいよもう卒業というところまで来てしまいました。

そこで茂さんが動きます。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初めの経緯の続きです。茂さんが佳子さんに告白をしましたが断られました。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初め③

銀行に就職も決まっていたし、この際は当たって砕けろだ、という思いで意を決して佳子さんに告白をしました!

石破茂
石破茂

結婚を前提としてこれからもお付き合いいただけませんか?

佳子さん
佳子さん

弁護士になりたいから法律学科に入ったのに、私と結婚したいから安定した仕事がいいと言って三井銀行にしたんですよね。そういうふうに人生の目標がコロコロ変わる人は私は嫌いです。

石破茂
石破茂

……何のために三井銀行に入ったんだろう。

本当に当たって砕けてしまいました。それでも仕事については面白くなってきて続けていたと言っていました。

それから2人の連絡は途絶えてしまいました。本来ならばこのまま別々の人生を歩んでいったのかもしれませんが3年後に2人を引き合わす出来事が起こりました。

茂さんの父である二朗氏が死去したことです。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初めの経緯の続きです。茂さんの父・二朗さんの死後、佳子さんからの弔電をきっかけに交際を始めました。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初め④

弔電をくれた佳子さんに茂さんがお礼の電話を入れました。それをきっかけに2人のやり取りが始まり、ようやく交際へと発展したようです。

連絡が途絶えていた間、佳子さんは丸紅に勤めていて結婚話が出ていたそうで…。

佳子夫人
佳子夫人

実は再会する前、私は両親の勧めでお見合いを3回していました。

という佳子さんでしたが、なんとなく気に入らずにお断りしていたそうです。そして再会から2年後の1983年に2人は結婚をしました。

ピー子
ピー子

何度も佳子さんにアタックを続けていた一途な想いが届いたのかしら。

なんかいいわね~

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

なんか女ってこういう話、好きだよなー

 

結婚してから3年後の1986年(昭和61年)に衆議院議員に初当選し、茂さんの政治家人生が始まりました。政界に入った経緯については次の項で後述します。

茂さんが政治家になってからの妻の佳子さんの支えは並大抵のことではなかったと思います。茂さんはこのように述べています。

石破茂さんが妻・佳子さんについて語っていたコメントです。議員になって38年支えてくれたことへの感謝の言葉です。

石破茂さんが語る妻・佳子さんについて①

石破茂さんが妻・佳子さんについて語っていたコメントです。苦労をかけ続けていた佳子さんへの労いの言葉です。

石破茂さんが語る妻・佳子さんについて②

議員なって38年間、ずっと傍で支えてくれた妻の佳子さんへの感謝と労いの言葉です。こちらの言葉は茂さんが2024年9月にあった総裁選を勝ち取ったあとのコメントです。

ファーストレディーとなった佳子さんはこれから多くのメディアに取り上げられる立ち位置となり大変になっていくかと思いますが応援していきたいですね。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初めの経緯の続きです。38年間の茂さんの議員活動を支えてきた佳子さんです。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初め⑤

仲の良いご夫婦と見えますが、夫婦円満の秘訣とはなんでしょうか。佳子さんは次のように答えています。

佳子夫人
佳子夫人

うーん、ほぼ毎日電話していることかな。でも、長電話はしません。

ある新聞に、“1日30分以上話をしない夫婦は離婚率が上がる”と書いてありましたけど(笑)

佳子さんが言うには茂さんはかなりマメな性格のようです。でもその方が同じ家族として安心しますよね。

茂さんが現場で頑張っている間も佳子さんも地元・鳥取での活動や総裁選の選挙活動にも積極的に行動していました。このような切実なお姿を見ますと、このお二人の出会いがあって良かった、と思うこととこれからの国内の政策に期待します

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初めの経緯の続きです。総裁選の選挙中での佳子さんの演説です。

石破茂氏と妻・佳子夫人の馴れ初め⑥

ゲン
ゲン

政治家をやっていくことは茂さん一人だけで済む話ではなくて、佳子さんとの二人三脚での活動で成り立っているように見えるね

SNSにも多くのコメントが挙げられています。

佳子さんの生の声が聴けるX動画があります。貴重なご挨拶ですね。

石破佳子さんのプロフィールを簡単ですがまとめましたのでご覧ください。

ファーストレディー・石破佳子さんのプロフィール
旧姓 中村 佳子(なかむら よしこ)
生年月日 1956年8月26日
年齢(2024年10月時点) 68歳
出身 東京都
姉妹 次女(姉が1人)
出身校 慶應義塾大学法学部卒業
両親 父)中村 明  母)中村 博子

伝説エピソード⑧:政界入りは父の友人だった田中角栄の一言で決断!

1981年9月に茂さんの父である二朗さんが死去しました。

生前に二朗さんは友人の田中角栄氏に「最後の頼みだ。葬儀委員長をやってくれ。」という約束を交わし、二朗氏が死去した際に田中氏は…。

田中角栄
田中角栄

おい、あの葬式(県民葬)には何人来たんだ?

石破茂
石破茂

確か3500人だったと……。

と答えたら、すぐに秘書の早坂茂三さんを呼んで、

田中角栄
田中角栄

4000人集めろ!青山斎場を予約しろ。

石破茂
石破茂

な、なんですか?

田中角栄
田中角栄

お前の親父と約束したんだからな。

俺が葬儀委員長で葬式をやるぞ。

ということになり、二朗氏の葬式を取り仕切ったそうです。

田中角栄氏といえば、内閣総理大臣歴を持つ人だと知る人は多いかと思います。そんな田中氏は茂さんの父・二朗氏との交遊関係ののちに息子の茂さんにも目を掛けていました。

田中角栄元首相がスピーチをしています。

田中角栄元首相

では、田中角栄氏とはどのような人物なのか、ですが名前は知っていても具体的に何をやっていたのか、人としてどのような人物なのか、までは知らない人がいるかと思いますので簡単ですがまとめましたのでこちらをご覧ください。

元総理大臣・田中角栄とはどんな人物?
●学校の校長に就任したことがある
●新潟県出身。上京後に土木科の学校に通い、のちに建築事務所を立ち上げる
●自衛隊に入隊し、兵役の経験がある
●昭和22年(1947年)に衆議院議員に当選し政界の道に入る
●第64・65代に内閣総理大臣を歴任した
●首相時、妻のはなが病弱のため長女の眞紀子がファーストレディーの役目を代行した
●日本列島改造論(交通インフラ)を計画、実行した
●時間に大変厳しく、守れなかった相手が憮然とした田中氏に土下座をしたエピソードがある
●全盛期には7~8000枚の年賀状が届き、すべてに目を通していた
●決断力が早く短期でせっかちで結論も早く、できることは100%実行していた。
●首相辞職後、ロッキード事件で逮捕される(受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の容疑)
●逮捕後の保釈であっても田中氏に対する支持者は尽きず、総選挙でも何度かトップ当選を果たしている
●自身の支配力低下で大荒れし、ウイスキーのがぶ飲みで脳梗塞に倒れ、政治生命を絶たれる
●石破茂氏の父・二朗氏とは盟友。二朗氏が死去した時は葬儀委員長を務めた
ゲン
ゲン

エピソードがありすぎてまとめきれませーん!

ピー子
ピー子

角栄さんてホントすごい人なのね!

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

おれっち、弟子入りしたかったぞー!

田中氏は豪快なイメージを持つお人柄だったように見受けられます。ですが自分を慕う人や周囲の大切な人には相当な配慮もできていた人物とも考えられます。

田中氏は友人・石破二朗氏の息子である茂さんとも交流を続けていたのだと思います。茂さんも田中氏のことを尊敬していました。

父・二朗氏の葬儀を無事に終えて、茂さんが田中氏の元へお礼の挨拶に行った際に…。

石破茂
石破茂

ありがとうございます。父も大変喜んでおります。

田中角栄
田中角栄

まあまあ、そんなことはいいから。それより今すぐ名刺を作って、葬式に来てくれた人達を全員まわって選挙前の挨拶をしなさい。

石破茂
石破茂

はあ、私はまだ24ですが…。

田中角栄
田中角栄

昭和58年には衆参同時選挙がある。

そこでお前は衆議院議員になるんだ!

さすがの茂さんも当時は若かったので、田中氏の気迫にたじろいでいると…?

田中角栄
田中角栄

君は自分さえ良ければそれでいいのか! 君の父親は県知事15年、参議院議員7年。君が跡を継がなかったら、これまで応援してくれた地元の人に申し訳ないと思わないのか!

石破茂
石破茂

…考えさせてください。

と答えるのが精一杯だったようです。そりゃそうですよね…、いきなり強く言われましたから。

1983年に撮影された石破茂氏と田中角栄氏のツーショットです。

石破茂氏と田中角栄氏(1983年撮影)

それから茂さんは田中氏の言葉を受けたことが政界に入るきっかけになり、1986年(昭和61年)に衆議院議員の総選挙で初当選しました。

石破茂さんは1986年(昭和61年)に衆議院議員の総選挙で初当選を果たしました。選挙演説中の画像です。

1986年(昭和61年)に衆議院議員の総選挙で初当選を果たす

当時のことについて茂さんは以下のように語っています。

石破茂
石破茂

田中先生がいなかったら、私は間違いなく政治家にはならなかった。それは100%言える。今頃、あの世で父と田中先生はどんな話をしているのかなぁ……。

と、このような感じでしたが政治家になるだけでも大変なエピソードでしたね。

ゲン
ゲン

田中氏の気迫に押されたことがきっかけで政治家になったんだね。

説得されたのか、力ずくなのかわからないけど。

ピー子
ピー子

でも茂さんのことだからよーく考えてから決断したのだと思うわよ。

センパイ犬・ゴン
センパイ犬・ゴン

おれっち、どんなに説得されても政治家は無理だな。

難しそうだしよ。(ブルブル…)

SNS上でもコメントが挙げられています。

田中角栄氏のプロフィール
生年月日 1918年5月4日
出生地 新潟県刈羽郡二田村(現:柏崎市)
没年月日 1993年12月16日(75歳没)
出身校 二田尋常高等小学校卒業
中央工学校夜間部土木科卒業
研数学館放校
正則英語学校放校
錦城商業学校商業科4年制
(商事実務「コーポレート・ファイナンス」)修了
前職 田中土建工業社長
越後交通代表取締役社長・会長
中央工学校校長
所属政党 日本進歩党 → 日本民主党 → 無所属/同志クラブ →
無所属/民主クラブ → 民主自由党 → 自由党 → 自由民主党
→ 無所属 (田中派)
称号 陸軍上等兵
西山町名誉町民
一級建築士
配偶者 田中はな
子女 長男:田中正法
長女:田中眞紀子
二男:田中京
三男:田中祐
親族 田中角次(父)
田中直紀(入婿)
山科薫(甥)
田中雄一郎(孫)

石破茂の幼少期から政界入りまでの年表

ここまで石破茂さんのエピソードを紹介してきましたが、幼少期から政界に入るまで時系列でご覧ください。

石破茂さんの年表です。幼少期の推定は小学生。生まれは東京都で末っ子の長男です。大学時代の推定は20歳前後。1979年慶應義塾大学法学部法律学科を卒業。銀行時代は20代前半です。1979年~83年まで三井銀行に勤めました。1983年(昭和58年)26歳の時は父が他界し父の友人・田中角栄元首相から政界を薦められます。1986年(昭和61年)29歳の時は第38回衆議院議員総選挙に初当選しました。

石破茂年表(幼少期から政界入りまで)

ゲン
ゲン

衆議院議員に初当選した当時の茂さんは、

全国で最年少の国会議員だったようです

石破茂のプロフィール

生年月日 1957年2月4日
年齢 67歳(2024年9月時点)
出生地 東京都千代田区
出身校 慶應義塾大学法学部法律学科卒業
前職 三井銀行(現:三井住友銀行)行員
所属政党 自由民主党(田中派事務局職員→中曽根派→渡辺派)
→新生党
→新進党
→自由民主党(平成研究会→無派閥→水月会)
称号 法学士(慶應義塾大学・1979年)
配偶者 石破佳子
親族 祖父・石破市造(大御門村長)
父・石破二朗(公選第4-7代鳥取県知事、第28代自治大臣、第38代国家公安委員会委員長)
公式サイト 石破茂オフィシャルサイト

まとめ

ここまで石破茂さんのエピソードをご紹介してきましたが、中でも父・二朗さんや母・和子さんの家系からエリートと呼んでもおかしくないほどの聡明な方々がずらりと並んでいたことに驚きました。

そして、冒頭で紹介しましたように自民党の新総裁となり、内閣総理大臣に任命されたことで妻の佳子さんがコメントを出しています。(※コメントは総裁選後のものです)

総裁選後に妻の佳子さんが、まだ信じられない気持ちをコメントしていました。

総裁選後の妻・佳子さんのコメント①

佳子さんらしい素朴な感じはしますが、まさに仰る通りかと思います。誰もがこのような経験をしますとそう思いますよね。

妻の佳子さんが石破茂氏の代わりとなるもう一つの目線としてアドバイス等を寄せてほしいとコメントしています。

総裁選後の妻・佳子さんのコメント②

このコメントを見ますと、佳子さんのこれから茂さんを支え続ける覚悟が見受けられます。

石破茂新総裁を支えることについて妻の佳子さんが責任の重さを実感しているコメントを出しています。

総裁選後の妻・佳子さんのコメント③

そうですね、言葉にならないほどの大変さを感じられますが、石破総理にはこれからの国内の政策をどんどん打ち出してほしいな、と思っています。

2024年10月現在で今もなお、裏金疑惑の件で尾を引いており石破内閣には早くも逆風が吹いています。このあたりはなんらかの形ですっきりさせないと後々足を引っ張ります。なんとか乗り切ってほしいですね。

最後まで読んでくださりありがとうございました。

コメント

  1. zoritoler imol より:

    I genuinely enjoy reading on this website, it holds wonderful articles. “And all the winds go sighing, For sweet things dying.” by Christina Georgina Rossetti.

タイトルとURLをコピーしました