- 石破茂の若い頃の伝説エピソード8選
- 伝説エピソード①:茂の出生時に病院は茂の父親の秘書を実の父だと思っていた!?
- 伝説エピソード②:父・石破二郎とはどんな人物?茂が育ったのは鳥取県
- 伝説エピソード③:国語教員だった母から毎晩偉人伝の朗読をさせられていた
- 伝説エピソード④:高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファン!
- 伝説エピソード⑤:学生時代からの鉄道マニア!お気に入りの寝台特急を1000回以上利用していた!
- 伝説エピソード⑥:大学2年に全日本学生法律討論会で1位を取る
- 伝説エピソード⑦:大学時代に一目惚れ!?8年の恋愛!お相手は佳子夫人
- 伝説エピソード⑧:政界入りは父の友人だった田中角栄の一言で決断!
- 石破茂の幼少期から政界入りまでの年表
- 石破茂のプロフィール
- まとめ
石破茂の若い頃の伝説エピソード8選
石破茂さんは政治家として30数年にわたり続けています。その経歴はかなり多く、世間的により多くの人が知っていることかと思います。
いくつかの政党を渡り歩き、2024年9月27日の自民党総裁選で高市氏との決選投票において、石破茂さんが勝利しました。
そして同年10月1日をもって正式に石破新内閣が誕生しました。
では、政治家になるまでの若い頃の茂さんはどのような人なのかご存じな方はどれくらいいますでしょうか。
茂さんの両親やその家系、茂さんがこよなく愛しているもの、実は驚くこともありますが私たちにとっても親近感を感じるものだったりするのです。
ここでは、石破茂さんの若い頃のエピソードについていくつかご紹介します。
②父・石破二郎とはどんな人物?茂が育ったのは鳥取県
③国語教員だった母から毎晩偉人伝の朗読をさせられていた
④高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファン!
⑤学生時代からの鉄道マニア!お気に入りの寝台特急を1000回以上利用していた!
⑥大学2年に全日本学生法律討論会で1位を取る
⑦大学時代に一目惚れ!?8年の恋愛!お相手は佳子夫人
⑧政界入りは父の友人だった田中角栄の一言で決断!
伝説エピソード①:茂の出生時に病院は茂の父親の秘書を実の父だと思っていた!?
石破茂さんは昭和32年(1957年)2月4日に東京都千代田区にて産まれました。
今をときめく、石破茂先生
出生地は東京だったのね
鳥取県八頭郡八頭町出身だと思い込んでいた
— 猫之助 🐈⬛ 「敬牛🐃愛虎🐅2024」 (@nekonosuke4649) August 26, 2024
鳥取県出身と言われていますが、生まれは東京だったんですね。鳥取県に転居したのは翌年のことです。これについてはあとでお話します。
茂さんが生まれた時、父の二朗さんの年齢は48歳だったのですが、当時二朗さんの秘書だった高岩迪資さんによると以下のことがウィキペディアに書かれていました。
自身の高齢の恥ずかしさから二朗は病院へ行きたがらず、高岩が代理で病院へ出かけていた。そのため病院側は、高岩を茂の父親と間違えたことがあったという。
二朗さんはほぼ病院に行くことはせず、秘書の高岩さんに任せていたことで、このようなエピソードが生まれたんですね。
ちなみに秘書の高岩さんの下の名前「迪資」はどのように読むのかな??
みちすけ…かな?
茂さんのご家族の構成にも驚きです。ご両親もご姉妹も皆、エリートなんです。
母・和子 ⇒ 元国語教員
長女 ⇒ 英語教員
次女 ⇒ 歴史教員
伝説エピソード②:父・石破二郎とはどんな人物?茂が育ったのは鳥取県
石破茂さんの生まれは東京でしたが、翌年の昭和33年(1958年)に鳥取県に転居しました。その理由はウィキペディアにこのように書かれています。
1958年に父・石破二朗が鳥取県知事に就任したため、鳥取県へ転居。中学校卒業まで鳥取県八頭郡八頭町で育つ。そのため茂には幼少期の東京での記憶がない。
石破茂さんの父である二朗さんの出身は元々は鳥取県であり、知事として最初に就任したのが1958年、1962年11月に二度目の再任、三度目が1966年11月、四度目が1970年11月で計4回鳥取県知事として活動をしていました。
1974年2月に知事を辞任し、同年7月に参議院議員として当選しています。
さて、その二朗さんとはどのような人物だったのか?
石破茂の父親は鳥取県知事や自治大臣を務めた石破二朗です。
— 我日本人 (@warenipponjin) February 15, 2024
鳥取県では知る人は多いかと思います。故郷の鳥取県に対して人一倍、思い入れがあったようです。
石破二朗さんのプロフィールを簡単にまとめましたのでご覧ください。
生年月日 | 1908年(明治41年)7月29日 |
出生地 | 鳥取県八頭郡(やずぐん)大御門村(おおみかどそん)大字殿 |
没年月日 | 1981年(昭和56年)9月16日 (73歳没) |
死没地 | 鳥取県鳥取市(鳥取県立中央病院) |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科卒業 |
所属政党 | 自由民主党 |
さらに二朗さんのことをもう少し掘り下げた内容がこちらです。これでなんとなく人柄やイメージなど想像ができそうです。
二朗さんはとにかく経歴がとんでもなくすごい人でした。仕事一筋だったのではないでしょうか。その一方で義理や人情に厚い方でもあります。
ただの地方政治家じゃありません。
御父上の石破二朗氏は。
建設事務次官 参議院議員、鳥取県知事。鈴木善幸内閣において、自治大臣兼国家公安委員会委員長を歴任。 https://t.co/X2u3xW18Pr— 宮島正 (@yasuokajihei) June 23, 2024
息子の茂さんのブログの中で父・二朗さんの遺影を写した画像がありました。「なぜ政治家を志したか」のサブタイトルで書き込みされています。
二朗さんが亡くなる前のエピソードが詳しく掲載しています。二朗さんの友人、田中角栄元首相との最後のやり取りがとてもわかりやすく丁寧に書かれています。よろしければこちらもご覧ください。
鳥取 ArtDB Projectという鳥取県内の野外彫刻専門のホームページに二朗さんの知事時代をモチーフにした像が掲載しています。
低めの椅子に腰を掛けた二朗さんの姿です。知事時代はこのような感じで佇んでいたのでしょうか。とても繊細に綺麗に作られています。
ただ一つだけ疑問があります。ホームページ内で掲載しているこの像の設置場所の住所なのですが、鳥取中央郵便局交差点は正しいのですが、「鳥取市富安2丁目」は少し場所がずれています。JR山陰本線を挟んだ向こうになってしまうのです。
これって気付いている方はいらっしゃるのでしょうか?私なりに正しいと思う住所をここに掲載させていただきます。こちらの地図で良いかと思います。
鳥取県に貢献した二朗さんへの敬意が込められているね
そんな父を持つ茂さんもその意思を引き継いでいるよ
あと、ホームページ内では「二郎」と記載していますが正しくは「二朗」です。
父・二朗さんの経歴を見ますといろんな職務を転々と移り実績を重ねてきました。それに対して息子の茂さんは政界に入り、これもまた様々な党や政権支持を渡り歩き、2024年9月現在では次の総裁選の候補者の1人として名を挙げています。
こうしてみるとやっぱ親子なんだなーって思うぜ
経験とか実績の積み方が似てるんだよな~
お父様もご子息もどちらも活躍が素晴らしいわね!
伝説エピソード③:国語教員だった母から毎晩偉人伝の朗読をさせられていた
茂さんの母の名前は石破和子と言います。ウィキペディアでは以下のことが記載しています。
母親は、自身が国語教員だったということもあり、教育熱心な人物だった。小学校の頃は毎晩1時間程度、偉人伝の朗読をさせられた。
母・和子さんの教育熱心なところは和子さんの家系から引き継がれているように見えます。とくに祖父の金森 通倫(みちとも)氏からの影響が大きいです。
では、簡単に和子さんの家系について追っていきましょう。画像ですが家系すべての収集は不可能でしたが4人だけですがこちらになります。
「祖父」や「長男」といった肩書きは和子さんから見た場合としてご覧ください。
画像は白黒でわかりにくいですが、どことなく雰囲気が似ているように見えるのは私だけでしょうか。金森家の人たちは誰もが仕事で成果を出している人たちばかりです。
それぞれ進む道は違いますが、祖父の金森通倫氏から始まり子供たちは皆、すごい肩書きを持っています。
・キリスト教信者
・牧師
・板垣退助と政談演説をした
・大河ドラマ「八重の桜」のモデル
・妻は岡山出身の小寿(こひさ)という女性
〖長男〗金森 太郎 ⇒ 徳島県知事・山形県知事 ⇒ 〖娘〗和子(石破茂の母)
〖次男〗金森 次郎 ⇒ 山之内製薬取締役
〖三男〗金森 五郎 ⇒ 郡山精神病院院長
〖四男〗金森 九郎 ⇒ 東京工業大学教授寿々枝
寿々枝
三寿
四寿子
※以降は不明
実際に茂さんは今は大変な知識を持ち政治家となっているよね
お母さんの影響はあったのかもしれないね
伝説エピソード④:高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファン!
石破茂さんは政界屈指のアイドル通を自認してまして、中でも特に高校時代からアイドル歌手グループ「キャンディーズ」の大ファンのようです。
石破茂といえばキャンディーズ
— ゆっくり マーキュリー@アバパー兄さん (@2010chychy24) August 14, 2024
茂さんはインタビューでも何回かアイドルのことやキャンディーズについてファンであることの持論をこう言っています。
私は、ランちゃんより二つ年下。ミキちゃん、スーちゃんより一つ年下です。
さらにこのように話していました。
ほぼ、同世代ですから、キャンディーズが歌手デビューした1973年には、私は男子校の高校2年生。まさに、キャンディーズらのアイドル全盛時代に、青春時代を過ごしました。
キャンディーズは1970年代に活動をしていたアイドルグループですが、世代によっては詳しく知らないと思われる方もいるのではないでしょうか。
ランちゃん、ミキちゃん、スーちゃんの愛称で呼ばれていた3人組がリリースした曲は、数々のヒット曲を生み出した伝説のアイドルグループということは間違いありません。
では、キャンディーズとはどのようなグループだったのかを簡単にまとめましたのでご覧ください。
活動期間が意外に短かったにも関わらず、現代でも語り継がれるほどの人気だったというわけです。平成、令和へと数多くのアイドルグループが世間に出ていますが、キャンディーズは昭和を代表するアイドルグループとして大きな功績を残しました。
茂さんは当時の青春時代の一つとして忘れることなく、今でも語り続けています。
私は「ミキ派」です。パッと見で誰が一番いいかといえば、ミキちゃんでしょう。一番美人だし、歌がうまい。父親は声楽家で、母親はピアノの先生。音楽一家で育ったということです。ランちゃんは妖艶で、例えばお付き合いしたら大変だろうと思いながらひかれてしまう。スーちゃんは、お付き合いしたら一番楽しいだろうなという感じ。隣のクラスにいそうな、かわいい3人の女の子だった。
キャンディーズは容姿がかわいいだけではなく、歌もうまかったです。時代が過ぎても「この曲知ってる!」と思う人はいるのではないでしょうか。
例えば下のシングル曲の一例ですが、あなたがご存じの曲はありますでしょうか。
実はキャンディーズの中でも現代のグループでも言われているセンター争いがあったことは知っていますか?まあ、「争い」と言ってしまえば穏やかに聞こえませんし、そこまで激しいことではありませんでしたが、曲によってセンターポジションを変更している時がありました。
全曲の大半はランちゃんがセンターに立っていますが、これもキャンディーズを売り込むための戦略の一つだったようです。
例えば、下の17枚目のシングル「微笑がえし」はランちゃんが基本センターなのですが、途中でミキちゃんと入れ替わってセンターに入ったり、スーちゃんと入れ替わってセンターに入るなど、全員のセンターを見ることができます。
動画はこちらです。↓↓↓
この動画を見るだけでもキャンディーズがなぜ人気があったのかわかるような気がしますし、最後のランちゃんの生声がとても若々しくてかわいいですね。
茂さんがキャンディーズの虜になったことも納得ができます。
私の好みは、美人で控えめで芯の強そうなミキちゃん。もう時効だと思うので白状すると、同級生の悪童何人かで、キャンディーズが出ている広告の車内吊りを失敬したことがありました。
失敬?パクってんのかよ!(笑)
まあ!!(笑)
家に持ち帰っていないので私は主犯格ではありません(笑)。彼女たちは青春の象徴ですね。同年代の議員仲間と年に2回ぐらいカラオケに行くと、歌うのはやはりキャンディーズが中心。私はシングル全曲をそらで歌えます。天国にいるスーちゃんも含め彼女たちに会えたら、「一緒に歌いましょうよ」と言いたいですね。
天国?なんだ、スーはいねーのか?
すでに亡くなられたそうよ
そうなのか…それは悲しいな
キャンディーズは3人そろってキャンディーズなわけであって、仮に、藤村美樹さんが伊藤蘭さんと一緒にやることがあったとしても、2度と“キャンディーズ”であることはないわけですよ。
さすが石破さん…ファンだけによくわかっていますね
やはり、(ファン)それぞれの心の中にいればいいものなんだと、私は思っているんですね。
茂さんのキャンディーズ青春時代のあとに悲しい出来事があったのが、2011年(平成23年)4月21日にメンバーの一人だったスーちゃんこと田中好子さんが乳がんのため死去しました。55歳でした。
その時の茂さんの言葉がウィキペディアでこのように記載しています。
本当の同時代を生きた私たちの青春そのもの。大事な友達を亡くしたような思いだ
とコメントしています。さらに動画の中でもスーちゃんについて茂さんがコメントしています。
キャンディーズのランちゃんが解散宣言をしたセリフで「普通の女の子に戻りたい!」にちなんで、茂さんがこのようなことを漏らしていたことがありました。
キャンディーズに及びもつかないが、普通のおじさんに戻りたい。
かと言って国のことや自身の立場から逃げたいというつもりではないのでご心配なく(笑)
SNSでも茂さんとキャンディーズについて様々なコメントが挙げられています。
石破茂が鉄道とキャンディーズの話をするYouTubeチャンネルを開設して欲しい
— 駱駝 (@camel_ys) September 10, 2024
石破茂んちに行ってキャンディーズの追っかけだったときの話とか聞きてぇ
— じんじん人事委員 (@JINJIN) August 23, 2024
あと、このようなコメントが出ていますが、これって本当に茂さんなのでしょうか。
石破茂は、キャンディーズファンで有名だが、こんなところにキャンディーズと一緒に写っているとは❗なんちゅう奴やw。 https://t.co/5AEwvmFOae
— 堤 和紀 (@avenir_blastar) July 19, 2024
これについては、ウィキペディアにこう書かれています。
キャンディーズが1977年6月に行った「朝霧高原バスツアー」の際に撮影された記念写真において、スー(田中)の隣に若き日の石破が写っている、という話がwebで語られているが、該当の写真に写っている人物は別人である、と石破本人が否定している。
それは私ではありませんね。
そうなんだね、じゃあみんな誤解のないようにね!
伝説エピソード⑤:学生時代からの鉄道マニア!お気に入りの寝台特急を1000回以上利用していた!
茂さんは大の鉄道ファンでマニアと言われるほど知識も豊富です。地元の鳥取と東京を結ぶ寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」を利用する姿も見かけていますが、中でも特に思い入れがある寝台特急についてウィキペディアにはこのようなことが書かれています。
「サンライズ出雲」の前身でもあったブルートレイン時代の「出雲」は自身の高校受験での上京から学生時代、国会議員時代を通じて1000回以上利用したことがあるという。
1000回…といいますと大げさに言っているように思いましたが、実際に茂さん本人が言っているのと、鉄道が好きでたまらない様子から案外本当なんだろうな、と思います。
ブルートレインの出雲は現在は走っていません。茂さんはこの頃から好きだったために今でもこのようなことを言われています。
(ブルートレイン時代の出雲は)もう絶滅しちゃってね……。
そして、このようにはっきりと言っています。
これ好きだったね。1000回は乗ってたんですね。
その魅力は「鉄道」、「旅」、「非日常感」として、
夜走るんですよ! 自分の空間だから10時間は、もう酒を飲もうが、読書しようが『これ、私の時間だ!』ってのがあってね。蘇生するのよ。
このコメントに対して、SNS上でこのような反応がたくさん出ていました。
1000回って凄いな…。
しかも出雲って名前がカッコイイ
ホームやブルートレインの中で、石破さんを何度もお見かけしました。
いつもいらっしゃいましたね。私も出雲に乗って帰省していたんです。
そうですね、自分が一息付ける時間があるといいですね!
人間味溢れる石破茂さんの素敵な趣味の話をありがとう<(_ _)>御座います。
そんなに乗れたなんて、羨ましい…
石破さんの話、めっちゃ分かるわぁ
寝台特急いいですよね!自分の空間というのわかりますね
茂さんの鉄道愛に対して様々な共感する言葉が、溢れるほどネット上に広がっています。先ほどの茂さんの言葉は、Xで語っています。
大好きな鉄道について語りました。 pic.twitter.com/oqkYYeNvnT
— 石破茂 (@shigeruishiba) September 8, 2024
ブルートレイン時代の寝台特急「出雲」はみなさんは乗車したことがありますか?「どちらかと言うと乗ったことがないし、よく知らない」という方のために簡単ですがどのような列車なのかまとめてみましたのでご覧ください。
車体の先端に取り付けられているヘッドマークとはこのようなものです。
ブルートレイン時代の出雲は時期によって様々な姿を見せてくれていました。ここではわかる範囲でいくつかご紹介しますね。
晩年では出雲のマークもすっかり汚れと錆になると同時にその役割を終えようとしたのかもしれませんね。
全国でブルートレインが廃止になったのは2014年と言われています。時代と共に私たちの記憶として青い伝説は残り続けています。
ブルートレイン時代の出雲の貴重な動画が配信されていましたので、その雄姿をご覧いただければと思います。これを見て懐かしい、と感じる人はどのような想いでしょうか。
時の流れによって消えていったブルートレインは今でも茂さんの心の中にいつまでも残っています。
伝説エピソード⑥:大学2年に全日本学生法律討論会で1位を取る
茂さんは1979年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業しましたが、大学2年の時に全日本学生法律討論会で優勝をしました。
全日本学生法律討論会とはどのような大会なのか、初めて聞く方も多いのではないでしょうか。そこで、簡単ではありますが全日本学生法律討論会についてまとめましたのでこちらをご覧ください。
開催校の教授が出題をするルールから当時、茂さんが参加した場所は専修大学で合っているかと思います。ここに掲載している画像は参考画像ですので、実際の茂さんが参加した会場とは関係がありません。
全日本学生法律討論会に参加した当時のことについて茂さんは次のように振り返っています。
私が参加したときのテーマがたまたま刑法だった。刑法の教授が、2年生の成績優秀者を何人か呼んで学内予選をやったんです。
予選の内容は公文書偽造の事例問題。その事例は実際にあった事件で、当時の最高裁は公文書偽造にあたるとして有罪判決を下したもの、とのことです。
私は捻くれ者なので、「こんなもの公文書偽造にあたるはずがない」と無罪にする議論を展開したら、そのまま学内予選で優勝しちゃった。
そしたら教授からこのように言われました。
審査員には最高裁の判事もいるんだ。最高裁判決と逆のことを言ったら、良い点数は多分つけてもらえない。慶應義塾の名誉がかかっているんだから、結論は逆にしなさい。
と言われたので、茂さんは、
大会当日は論法を逆転させて、まあペラペラ喋っていたらなぜか優勝しちゃった(笑)。
そもそもの話なんですが、実際に最高裁で有罪判決で下したものを、茂さんの無罪論法で予選通過しちゃうことがどうなのかな、って思いますね(笑)。公文書偽造は無罪と言えなくもない、とも捉えてしまいますよね(笑)
それほど茂さんの論破力が素晴らしいのだと思いますが、実際に聞いてみたかったですよね。説得される側になってみたい…と思うのは私だけでしょうか。
うーん、よくわからねーけど相手をうまく騙せばいいのか?
それは違うんじゃない?
質問もされるからね、きちんと答えなくちゃいけないみたいよ。
へー、難しいことはおれっちには無理だな!
一大学につき複数人でチームとして大会に出場するような感じでしょうか。会場には多数の人が集まるのでしょうね。
SNS上でも茂さんのことについてコメントが挙がっています。
石破は慶大時代に全日本学生法律討論会で1位になったこともあるし、討論はお手のモノ。
— Toshi@流浪国家の民 (@G_bonham_) September 17, 2018
石破さんの記者会見 面白いというか上手いな。
wikipeみると大学生の頃に全日本学生法律討論会1位とかかいてん— かじじ (@kajijiKJJ2) September 27, 2024
石破はなんでも読んでますね
多分この人、
自民党でも知識量が多いほう。防衛大臣のときに論戦強かったし、
慶應大学で法律ディベートで
学生一位になってる
> 1979年、慶應義塾大学法学部法律学科(新田敏ゼミ[10])を卒業[8]。
2年生のとき、全日本学生法律討論会で1位になる[8]。— お受験マスター (@ojuken_master) September 29, 2024
茂さんは慶應の時に律法会 (@rippou5657) / Xという法律サークルに所属してたんだよ。もしも政治家でなかったら法律関係の仕事に就いていた可能性もあったかもしれないね
伝説エピソード⑦:大学時代に一目惚れ!?8年の恋愛!お相手は佳子夫人
茂さんは慶応義塾大学の在学中に、図書館で佳子さんを見かけたことで一目惚れして8年の歳月をかけて恋愛結婚をしました。
お互い大学の同級生の法学部でクラスは違っていましたが、共通の授業が多くて顔を見る機会はありました。ですが会話をするきっかけは何もなかったようです。
茂さんと佳子さんが結婚したのは1983年で、最初の出会いから8年ですからそれなりに年月は経ちました。佳子さんは茂さんに対して最初は印象が悪かったので、良い印象になるまで時間が必要だったのと、一度茂さんからの交際を断っています。
では2人の馴れ初めはどのような流れだったのでしょうか。解説していきますね。以下をご覧ください。
絵に描いたような出会い、と言えるような感じでいいですね。ですが会話をするきっかけがありませんでした。
どうやって彼女と仲良くなったらいいのか。しょせん田舎育ちですから、とてもプレイボーイ風にはいきません。取り柄がない男、というのは自覚していました。
そこで茂さんは次のようなことを実行しました。話すきっかけが欲しかったんでしょうね。
受けている授業が同じであれば試験内容も同じ、茂さんは得意の刑法の予想問題と答えを周囲に配りまわる作戦に出ました。
せめて、勉強で少しでもアピールできればと思ったんですね。刑法が好きで自信があったから、試験問題の予想をしたわけです。多分刑法はこの問題が出るだろう、その答えはこれだ、というアンチョコみたいなペーパーを作って、希望者に頒布しました。
ですがそれでも仲良くなることがなかったのですが、どうも佳子さんの方で思っていることがあったみたいです。
大学2年の後期試験の前に、彼が刑法の勉強会を開催するというので、お友達と一緒に参加したんです。
そこで彼が試験問題を予想して、模範解答まで教えてくれました。
そのときに初めて言葉を交わしました。“キミは女子学院出身でしょ? うちの姉もあの学校出身だからね~”と、何か意味ありげなしゃべり方をされたので、あまり第一印象がよくなかったことを覚えています(笑)
法律討論会で優勝するほどの論破をする人が、女性への口説きについてはまるっきり駄目のようです(笑)。意識しすぎていたのでしょうね。この時はとっくに佳子さんのことが好きでしたから。
これをきっかけに私のことを覚えてもらうことはできた。でもその後、試行錯誤を繰り返したのですがたいして仲良くもなれず、いよいよもう卒業というところまで来てしまいました。
そこで茂さんが動きます。
銀行に就職も決まっていたし、この際は当たって砕けろだ、という思いで意を決して佳子さんに告白をしました!
結婚を前提としてこれからもお付き合いいただけませんか?
弁護士になりたいから法律学科に入ったのに、私と結婚したいから安定した仕事がいいと言って三井銀行にしたんですよね。そういうふうに人生の目標がコロコロ変わる人は私は嫌いです。
……何のために三井銀行に入ったんだろう。
本当に当たって砕けてしまいました。それでも仕事については面白くなってきて続けていたと言っていました。
それから2人の連絡は途絶えてしまいました。本来ならばこのまま別々の人生を歩んでいったのかもしれませんが3年後に2人を引き合わす出来事が起こりました。
茂さんの父である二朗氏が死去したことです。
弔電をくれた佳子さんに茂さんがお礼の電話を入れました。それをきっかけに2人のやり取りが始まり、ようやく交際へと発展したようです。
連絡が途絶えていた間、佳子さんは丸紅に勤めていて結婚話が出ていたそうで…。
実は再会する前、私は両親の勧めでお見合いを3回していました。
という佳子さんでしたが、なんとなく気に入らずにお断りしていたそうです。そして再会から2年後の1983年に2人は結婚をしました。
何度も佳子さんにアタックを続けていた一途な想いが届いたのかしら。
なんかいいわね~
なんか女ってこういう話、好きだよなー
結婚してから3年後の1986年(昭和61年)に衆議院議員に初当選し、茂さんの政治家人生が始まりました。政界に入った経緯については次の項で後述します。
茂さんが政治家になってからの妻の佳子さんの支えは並大抵のことではなかったと思います。茂さんはこのように述べています。
議員なって38年間、ずっと傍で支えてくれた妻の佳子さんへの感謝と労いの言葉です。こちらの言葉は茂さんが2024年9月にあった総裁選を勝ち取ったあとのコメントです。
ファーストレディーとなった佳子さんはこれから多くのメディアに取り上げられる立ち位置となり大変になっていくかと思いますが応援していきたいですね。
仲の良いご夫婦と見えますが、夫婦円満の秘訣とはなんでしょうか。佳子さんは次のように答えています。
うーん、ほぼ毎日電話していることかな。でも、長電話はしません。
ある新聞に、“1日30分以上話をしない夫婦は離婚率が上がる”と書いてありましたけど(笑)
佳子さんが言うには茂さんはかなりマメな性格のようです。でもその方が同じ家族として安心しますよね。
茂さんが現場で頑張っている間も佳子さんも地元・鳥取での活動や総裁選の選挙活動にも積極的に行動していました。このような切実なお姿を見ますと、このお二人の出会いがあって良かった、と思うこととこれからの国内の政策に期待します。
政治家をやっていくことは茂さん一人だけで済む話ではなくて、佳子さんとの二人三脚での活動で成り立っているように見えるね
SNSにも多くのコメントが挙げられています。
自民党新総裁の石破茂氏が奥様の佳子さんを初めて見た時「こんなにきれいな人がこの世にいるのか‼️」って一目惚れして、そこから8年かけて口説き落としたっていうエピソード最高。
そういうしつこい男大好き。— ド金 (@Sw2Fa) September 29, 2024
高校から慶応→三井銀行というプリンスキャリアなのに陰キャなのが好感がもてる
→一目ぼれした石破氏は1979年の卒業謝恩会で「結婚を前提に付き合ってもらえませんか」と告白するも佳子さんに断られたという。
石破茂氏、妻・佳子さんは慶大同級生 鳥取で総裁選見守りhttps://t.co/mpteliImyP
— すてぃーぶ (@SteveFixedIncom) September 27, 2024
石破茂の嫁・石破佳子の若い頃が可愛い!社長令嬢で恋愛結婚だった!
慶応義塾大学出のお嬢様だった。 pic.twitter.com/yPDYQcRmLp— 相互フォロー募集中 (@GotNewscom) September 28, 2024
佳子さんの生の声が聴けるX動画があります。貴重なご挨拶ですね。
石破佳子さん(石破茂夫人)首元がお若い。スポーツとかで鍛えてるんやろうか。
pic.twitter.com/MQSpYtyyM4— 源頼朝 (@J8t1Vwcqxj51) September 28, 2024
石破佳子さんのプロフィールを簡単ですがまとめましたのでご覧ください。
旧姓 | 中村 佳子(なかむら よしこ) |
生年月日 | 1956年8月26日 |
年齢(2024年10月時点) | 68歳 |
出身 | 東京都 |
姉妹 | 次女(姉が1人) |
出身校 | 慶應義塾大学法学部卒業 |
両親 | 父)中村 明 母)中村 博子 |
伝説エピソード⑧:政界入りは父の友人だった田中角栄の一言で決断!
1981年9月に茂さんの父である二朗さんが死去しました。
生前に二朗さんは友人の田中角栄氏に「最後の頼みだ。葬儀委員長をやってくれ。」という約束を交わし、二朗氏が死去した際に田中氏は…。
おい、あの葬式(県民葬)には何人来たんだ?
確か3500人だったと……。
と答えたら、すぐに秘書の早坂茂三さんを呼んで、
4000人集めろ!青山斎場を予約しろ。
な、なんですか?
お前の親父と約束したんだからな。
俺が葬儀委員長で葬式をやるぞ。
ということになり、二朗氏の葬式を取り仕切ったそうです。
田中角栄氏といえば、内閣総理大臣歴を持つ人だと知る人は多いかと思います。そんな田中氏は茂さんの父・二朗氏との交遊関係ののちに息子の茂さんにも目を掛けていました。
では、田中角栄氏とはどのような人物なのか、ですが名前は知っていても具体的に何をやっていたのか、人としてどのような人物なのか、までは知らない人がいるかと思いますので簡単ですがまとめましたのでこちらをご覧ください。
エピソードがありすぎてまとめきれませーん!
角栄さんてホントすごい人なのね!
おれっち、弟子入りしたかったぞー!
田中氏は豪快なイメージを持つお人柄だったように見受けられます。ですが自分を慕う人や周囲の大切な人には相当な配慮もできていた人物とも考えられます。
田中氏は友人・石破二朗氏の息子である茂さんとも交流を続けていたのだと思います。茂さんも田中氏のことを尊敬していました。
自らを「田中角栄の最後の弟子」と称する
石破総理「握った手の数、歩いた家の数しか票は出ない。余計なことは考えずにともかく歩け」
「常に有権者に接し、国民の声を直接吸い上げることが政治の原点だ」
田中角栄さんの言葉
2年5ヶ月の短命政権だったのに
数々のエピソードが語られる
角栄さん。… pic.twitter.com/6T1uU8NBEA— Sロー👌 (@hoai2328) October 17, 2024
父・二朗氏の葬儀を無事に終えて、茂さんが田中氏の元へお礼の挨拶に行った際に…。
ありがとうございます。父も大変喜んでおります。
まあまあ、そんなことはいいから。それより今すぐ名刺を作って、葬式に来てくれた人達を全員まわって選挙前の挨拶をしなさい。
はあ、私はまだ24ですが…。
昭和58年には衆参同時選挙がある。
そこでお前は衆議院議員になるんだ!
さすがの茂さんも当時は若かったので、田中氏の気迫にたじろいでいると…?
君は自分さえ良ければそれでいいのか! 君の父親は県知事15年、参議院議員7年。君が跡を継がなかったら、これまで応援してくれた地元の人に申し訳ないと思わないのか!
…考えさせてください。
と答えるのが精一杯だったようです。そりゃそうですよね…、いきなり強く言われましたから。
それから茂さんは田中氏の言葉を受けたことが政界に入るきっかけになり、1986年(昭和61年)に衆議院議員の総選挙で初当選しました。
当時のことについて茂さんは以下のように語っています。
田中先生がいなかったら、私は間違いなく政治家にはならなかった。それは100%言える。今頃、あの世で父と田中先生はどんな話をしているのかなぁ……。
と、このような感じでしたが政治家になるだけでも大変なエピソードでしたね。
田中氏の気迫に押されたことがきっかけで政治家になったんだね。
説得されたのか、力ずくなのかわからないけど。
でも茂さんのことだからよーく考えてから決断したのだと思うわよ。
おれっち、どんなに説得されても政治家は無理だな。
難しそうだしよ。(ブルブル…)
SNS上でもコメントが挙げられています。
石破首相が「政治の師」として田中角栄氏の言葉を紹介 日中首脳会談https://t.co/7HNe5r5xXE
石破茂首相がラオスの首都ビエンチャンで行った中国の李強首相との日中首脳会談で、自らが「政治の師」と仰ぐ田中角栄元首相のエピソードを紹介する場面がありました。
— 毎日新聞 (@mainichi) October 10, 2024
政治家はあまりいい仕事ではない…「知事の息子」として育った石破茂を政界へ導いた田中角栄の”鶴の一言” 母と2人の姉と同じく、学校の先生になりたかった #プレジデントオンライン https://t.co/c50Z3ZLNLK
— ゴハチ信者 (@gohachibeliever) October 23, 2024
生年月日 | 1918年5月4日 |
出生地 | 新潟県刈羽郡二田村(現:柏崎市) |
没年月日 | 1993年12月16日(75歳没) |
出身校 | 二田尋常高等小学校卒業 中央工学校夜間部土木科卒業 研数学館放校 正則英語学校放校 錦城商業学校商業科4年制 (商事実務「コーポレート・ファイナンス」)修了 |
前職 | 田中土建工業社長 越後交通代表取締役社長・会長 中央工学校校長 |
所属政党 | 日本進歩党 → 日本民主党 → 無所属/同志クラブ → 無所属/民主クラブ → 民主自由党 → 自由党 → 自由民主党 → 無所属 (田中派) |
称号 | 陸軍上等兵 西山町名誉町民 一級建築士 |
配偶者 | 田中はな |
子女 | 長男:田中正法 長女:田中眞紀子 二男:田中京 三男:田中祐 |
親族 | 田中角次(父) 田中直紀(入婿) 山科薫(甥) 田中雄一郎(孫) |
石破茂の幼少期から政界入りまでの年表
ここまで石破茂さんのエピソードを紹介してきましたが、幼少期から政界に入るまでを時系列でご覧ください。
衆議院議員に初当選した当時の茂さんは、
全国で最年少の国会議員だったようです
石破茂のプロフィール
生年月日 | 1957年2月4日 |
年齢 | 67歳(2024年9月時点) |
出生地 | 東京都千代田区 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部法律学科卒業 |
前職 | 三井銀行(現:三井住友銀行)行員 |
所属政党 | 自由民主党(田中派事務局職員→中曽根派→渡辺派) →新生党 →新進党 →自由民主党(平成研究会→無派閥→水月会) |
称号 | 法学士(慶應義塾大学・1979年) |
配偶者 | 石破佳子 |
親族 | 祖父・石破市造(大御門村長) 父・石破二朗(公選第4-7代鳥取県知事、第28代自治大臣、第38代国家公安委員会委員長) |
公式サイト | 石破茂オフィシャルサイト |
まとめ
ここまで石破茂さんのエピソードをご紹介してきましたが、中でも父・二朗さんや母・和子さんの家系からエリートと呼んでもおかしくないほどの聡明な方々がずらりと並んでいたことに驚きました。
そして、冒頭で紹介しましたように自民党の新総裁となり、内閣総理大臣に任命されたことで妻の佳子さんがコメントを出しています。(※コメントは総裁選後のものです)
佳子さんらしい素朴な感じはしますが、まさに仰る通りかと思います。誰もがこのような経験をしますとそう思いますよね。
このコメントを見ますと、佳子さんのこれから茂さんを支え続ける覚悟が見受けられます。
そうですね、言葉にならないほどの大変さを感じられますが、石破総理にはこれからの国内の政策をどんどん打ち出してほしいな、と思っています。
2024年10月現在で今もなお、裏金疑惑の件で尾を引いており石破内閣には早くも逆風が吹いています。このあたりはなんらかの形ですっきりさせないと後々足を引っ張ります。なんとか乗り切ってほしいですね。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
コメント
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